光さんが天国へ行って三週間が過ぎた。
光さんとは毎日会っていたわけでもないし、その上彼の作った歌はずっと側にあって、彼の喪失を未だ感じられない。
しかし、もう二度と会えない。
光さんを初めて認識したのは小学校三年生の時。
アコーディオン教室での終了演奏で林光作曲「たたかいの中に」の伴奏をした。
光さんと初めて会ったのは20歳の頃、大阪で。
尼崎ピッコロシアターでレクチャーコンサートみたいなのがあって、親父と一緒に行った。その時に親父が光さんに紹介してくれた。
親父は光さんの3つ年上。光さんが20歳の頃に大阪のうたごえ運動の関係で知り合っていた。
大阪でうたごえの大会があり、そこでピアノを弾ける人を探していた。
ちょうど、東京からフルートの林りりこの伴奏で青年がきているので彼に頼もうという事になったらしい。
親父はその青年に会の主旨を述べて、そこで自分たちが常々歌っている「たたかいの中に」を伴奏してもらいたいと頼んだ。
その時に、この「たたかいの中に」という歌は「まるえあきら」という人が作って、大変素晴らしい歌で自分たちがどれだけの思いを込めて歌っているかを、とうとうと述べたらしい。
その青年は静かに話を聞き終えて、にやっと笑って、
「まるえあきら」というのはペンネームで、その歌を作ったのは自分だという事を言った。
ちなみに、まだ芸大生だった光さんはそういう活動の為にはペンネームが必要だったらしい、そして何故「まるえあきら」なのかというと、マルクス、エンゲルス、昭和のあの人からとったらしい・・・なんとも洒落ている。
20歳の私はそのレクチャーコンサートにどういう感想を抱いたか、覚えていないが、24歳でその林光が関わっている「こんにゃく座」のセロ弾きのゴーシュの京都公演を観に行く事になる。
「ここが居場所だ」と思った私はすぐに東京に出てきて、こんにゃく座におしかけた。
こんにゃく座は林光が主催しているものだと思っていた。
光さんは座員ではなかった。
そして先生でもなかった。
座付き作曲家だった。
若い座員からも「光さん」と呼ばれていた。
入座が決まって、白墨の輪を観に行った時にロビーにいた光さんに
「今度、こんにゃく座に入る事になりました、大阪でお会いした岡原です。」と挨拶しにいった。
「自分の友達の娘がはいる年になったんだなあ・・・」
と言われたのが印象的だった。
つまり、光さんにとってこんにゃく座は若い自分の活動だったのだろう。
それから、光さんのたくさんのオペラに出してもらった。
白墨の輪から始まり、十二夜、ハムレットの時間、森は生きている・・・。
白墨の領主夫人の役で「どんな領主夫人にしたらいいですか?」と質問すると、「それは曲に書いてあるからさあ」と」言われた。
蜘蛛とナメクジと狸の蜘蛛の役をやったとき、初めて、「役」というものが掴めた。光さんの細君、和加子さんが「岡原は離婚したから良くなったのね」と言っていた。笑えた。
セロ弾きのゴーシュの楽長でフランスに行ったり、変身の下宿人でプラハに行ったり・・・。
あの作品で、この作品で、あの歌で、この歌で私は歌役者としての階段を一歩づつ登ったり、踏み外したり、駆け上がったり、立ち止まったりして生きてきた。
今の私の身体の半分は光さんの歌の中で生きた事でできている。
光さん本当にありがとうございました。
これから先、立ち止まると、光さんはきっと天国から
「だからさあ・・・曲にそう書いてあるからさあ・・・。」
と言うのだろう。
思い出、作品、たくさんありすぎて、本当になんだか・・・全然・・・いなくなったと思えない・・・。
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