おぐりとてるて、無事公演が終了しました。
応援してくださったみなさま、感謝感謝です。
あまりにやることが多くて、自分がどう演じられていたのか、作品がどうだったのか、さっぱりわからないまま突き進んだ。終わってからも、まだ作品の感触がわからない。お客様や、観ていた座員たちの意見を聞き、課題を追求し来年の旅に持って行かなければならない。
でも、ひとつだけ確信できた事がある。
我々のオペラ『おぐりとてるて』は、民衆が『えいさらえいー』と餓鬼阿弥を運ぶシーンに意味がある。
民衆が運んだからこそ意味がある。食べることすら危ぶまれていた民衆が、ご利益があると言えども運びつぐ。
演じている出演者が全員民衆になり、代わる代わる運ぶ。
学者を演じた私、背の高い女を演じた私、大蛇を演じた私、女房を演じた私、宿屋の女将を演じた私が民衆。
閻魔を演じた大石さんも、ミルメトウセンを演じたゆうこりんも…。
今時なら、ご利益ありますよと騙されて壺を買う…なんて事になったりして!
しかし、この話はそんな話ではない。
情けは人のためならず。
私はずるい人間だし、嘘つきだけれど、性善説だ。
人は自分の為だけに生きていても幸せにはなれない。人がいるから人との関係があるからこそ、幸せという事が感じられる。
だから、私らはこんな健気なてるての物語を観客と共有する。
最後のエピローグがまさに私の言いたい事だった。
自分の生活の中にはこんな奇跡は起こらない、けれど、それが物語となってやってくる。ひとときの慰めや喜びを感じ、生きる勇気を持つ。
この事を押し付けがましくなく、お客様が感じられるように、より磨きあげなくてはならない!
なあんて、たまには終わったら『良かったあ!』だけではなく考えてみました。
そして、私たちの物語は、よだかの星になり、ピノッキオになり、ネズミの涙になり、森は生きているになり、流れていく。
さあ、人々に、ひとときの慰めをえいさらえいと運ぼうではないか!
応援してくださったみなさま、感謝感謝です。
あまりにやることが多くて、自分がどう演じられていたのか、作品がどうだったのか、さっぱりわからないまま突き進んだ。終わってからも、まだ作品の感触がわからない。お客様や、観ていた座員たちの意見を聞き、課題を追求し来年の旅に持って行かなければならない。
でも、ひとつだけ確信できた事がある。
我々のオペラ『おぐりとてるて』は、民衆が『えいさらえいー』と餓鬼阿弥を運ぶシーンに意味がある。
民衆が運んだからこそ意味がある。食べることすら危ぶまれていた民衆が、ご利益があると言えども運びつぐ。
演じている出演者が全員民衆になり、代わる代わる運ぶ。
学者を演じた私、背の高い女を演じた私、大蛇を演じた私、女房を演じた私、宿屋の女将を演じた私が民衆。
閻魔を演じた大石さんも、ミルメトウセンを演じたゆうこりんも…。
今時なら、ご利益ありますよと騙されて壺を買う…なんて事になったりして!
しかし、この話はそんな話ではない。
情けは人のためならず。
私はずるい人間だし、嘘つきだけれど、性善説だ。
人は自分の為だけに生きていても幸せにはなれない。人がいるから人との関係があるからこそ、幸せという事が感じられる。
だから、私らはこんな健気なてるての物語を観客と共有する。
最後のエピローグがまさに私の言いたい事だった。
自分の生活の中にはこんな奇跡は起こらない、けれど、それが物語となってやってくる。ひとときの慰めや喜びを感じ、生きる勇気を持つ。
この事を押し付けがましくなく、お客様が感じられるように、より磨きあげなくてはならない!
なあんて、たまには終わったら『良かったあ!』だけではなく考えてみました。
そして、私たちの物語は、よだかの星になり、ピノッキオになり、ネズミの涙になり、森は生きているになり、流れていく。
さあ、人々に、ひとときの慰めをえいさらえいと運ぼうではないか!
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